オープンなユーザテスト風景ビデオ素材

事前説明してるところ
事前説明してるところ
テスト風景
タスク実施してるところ
観察室の様子
モニタールームで観察してるところ
今まで、こんな写真も気軽に出せるものがなかったんですよね
(施設提供:株式会社ユー・アイズ・ノーバス)

 今日はmixiの「ユーザビリティの会」コミュニティ内の有志で集まって、模擬ユーザテストの実施と撮影を行いました。

 世の中にユーザテストってこんなもんですよ、ということを気軽に参照できるビデオってのがないね、ってことが発端で、フットワークの軽い同コミュニティで「サクっと作ってフリーで公開しましょうよ」ってことになりました。どこも業務で実施したテストの映像は山ほど抱えてるのですが、気軽に外に公開できるものって持ってなかったりするんですよね。

 ユーザテストの被験者入室から退室までの流れを複数のアングルで収めました。タスクは携帯電話の電話帳登録で、被験者の発話は多めです。

  • 画面のアップ
  • キーを押す指のアップ
  • 被験者と進行役が並んで座ってる絵
  • それをマジックミラー越しの観察室から見ているスタッフの絵

などです。

 とりあえずそれぞれDVテープで収録してあります。近日中にMPEG2をDVDに焼いて実費負担で配布できる体制を作り、サンプルをネットでダウンロードできるようWMV形式あたりで作ってみる予定です。ご興味のある方は、mixiの同コミュや、ここをウォッチしておいていただくか、なにがしかの手段でご連絡をいただければと思います。

 基本的には編集無しの生素材の配布です。欲しい人が適宜必要な部分を自由に活用してください、というスタンスです。参加スタッフの思惑としては、

  • クライアント向けの営業用に
  • 被験者募集時にどんなものか知ってもらう為に
  • 教育用に

などがあるようです。何か面白い活用方法があればご提案くださいませ。


知識ってのはシリアライズできるものじゃない

 HQLでのセミナーの準備をしながら気づいたことのメモ。

■知識をシリアライズすることの矛盾

  冒頭の認知科学の基礎的なトピックのスライドを作っていて、なかなか順番が決まらずに困っていました。記憶、知識、学習といった部分は相互にからみあっていて、どこから説明するのが良いものか。できるなら、基礎的な内容から順番に触れていって、「これはさっき説明した○○に基づいています」と徐々に発展していくのが、綺麗でわかりやすいはずだ、と思っていたワケです。算数なんかの授業モデルですよね。

 が、これがそもそもあまり意味がない、もしくはよろしくないということがわかってきました。最新の学習理論的に言えば、そもそも人の知識獲得というのがそういうプロセスで起きていないんです。一見関連が見えない様々な事象を見たり聞いたりして、自分の中でそれらを結びつけて考えたり、帰納的推論を行って一般化したりする。それこそが学習の本質であって、学習者の中で自発的にそれが起きなければあまり意味がない。綺麗に系統立てて教えてあげてもフーンってなもんで流れていってしまう。むしろ、時には情報同士で矛盾すら起きて、それを合理的に説明してみる、といった活動がなければ身にはついていかない。

 恐らくそもそも自分の頭の中にある知識がそうして獲得してきたものなので、それをシリアライズして他人に伝達できる類のものじゃ無かったんです。σ(^^)は、インターフェイスの問題点を予測したり説明したりできる(まぁ、仕事して食べていけてる程度には)。それは誰かに「こうすればいいよ」と教わったものではなくて、好きで色々な道具に触れてきた中で得た膨大な商品知識、大学で得た認知科学に関する知識、仕事で得た経験などが複雑に組織化されて今の自分のスキルを構成しています。そしてそれを後進達にも継承していかなければならないワケですが、あまり上手くいっていません。それが何故なのか少しわかったような気がします。

 σ(^^)はユーザビリティ屋なので、自分の話が聞き手(読み手)にとって、スンナリ理解しやすいように整理し、系統立てて説明することにこだわりを持っていました。なので、自分の中のノウハウをなんとかシリアライズすることに固執していたところがあります。「これを読めば一通りのことがわかるよ」的なものを目指していたワケです。ですが、元々シリアルにσ(^^)の脳に入力された情報ではなかったものを、シリアルに出力して他人に伝達できようはずがないのです。そして、仮にそれができたとしても、相手の側でもそれがあんまり理想的な入力形態ですらないワケです。

■系統立てて整理してあげるのはダメ?

 もちろん、情報を系統立てて順序良く整理することの価値は依然として充分にあるでしょう。帰納的推論の過程が大事だといっても、すべての人が同じ事象を見聞きして、そこから同じ推論をして同じ一般解に辿り着く、なんてのは効率が悪すぎます。セミナーでそんなことしたら顰蹙の嵐でしょうね(笑)。ただよく言われるような「本当に大事なところは本人に考えさせる」みたいなスタンスは織り交ぜていかないと、σ(^^)達が受けてきた上意下達的教育から進歩していないことになります。セミナーではその辺のバランスを上手くとって、ジグソーと呼ばれる方式で、参加者自身で異なった資料を読んで理解してもらい、それをグループ内で説明しあって、それらの間で一般化できる知識を見いだしてもらう、ということをしてもらう予定です。これは最近の教育研究の中で注目されている授業形態です。そうすることでより深く理解をしてもらい、頭に染みこませてもらいつつ、人間の理解過程の本質についてその場でプチ体験してもらえたらなと思っています。決して講師がラクだからとかではありませんので、お間違えなきよう(笑)。>参加者の方

 多分、受け手の情報解釈への態度やスキルにも絡んだ話だと思います。綺麗に系統立てて話されたことの中からでも自分なりの一般化をしていける人もいるでしょうし、フーンで終わってしまう人もいるでしょう。人の違いもあれば、その内容に興味があるかどうかにも寄ってくるでしょう。前者に属する人は、基本的にあまりオーガナイズされた情報でなくても良いことになります。逆に後者の人にはどうするのが良いでしょう?自分で情報をオーガナイズするスキルがなければ雑多な入力は意味をなさないし、過度に整理された情報を一方的にガーっと入力されても目を回すだけです。バランスの問題と、そもそもどう興味を持たせるか、みたいなことなんですかね。

 少なくとも旧来の教育では与えられた情報をオーガナイズする術そのものについてはほとんど扱ってこなかったことは確かであり、そこは問題なんでしょう。そして、興味を持てずにドロップアウトしていく子供のために、やさしくやさしく情報をかみ砕いて整理したものを押しつける方向に流れていってしまいがちだったのが失敗だったのかも。

■正しい教育のあり方

 ヴィゴツキーという人が提唱した“発達の最近接領域”(Zone of Proximal Development)という考え方があります。ある子供がある段差を「乗り越えられない状態」から、「自力でそれができるようになる状態」までの間に、大人が足場をかけてやるなどの手助けをしてやればできる状態」というのがある。大人(教育者)の役目はその“足場かけ”(Scaffolding)を適切なレベルで行うことであって、無理だからと段差から遠ざけたり、段差の上に持ち上げてやったりするんじゃダメだよね、という考え方です。情報を与える側が系統立ててやるばかりでもなく、未整理なまま与えて放置するでもなく、学習者の中で推論や矛盾や問題解決といった知的活動が常に適切なレベルで起きるような与え方を苦心して考えていかなきゃならないってことですね。

■単なる知識が“心の糧”となる興奮

 さて、今日の結論は、読み手のわかりやすさはあんまり気にせずに、散文的に書き散らしていって、読み手が勝手に再構成するまかせりゃーいいんじゃん、ってことだろうか(笑)。まぁ、それは極論だとしても、σ(^^)の古巣のような認知教育系の研究では至極当たり前のこんなこと、トピックとしては在学中にも何度か耳にしていたはずですが、今それを人に教える立場になってみることで、ようやくそれらのエピソードが有機的に結びつき、自分にとって意味あるものに“化けた”気がします。これが本当に糧としての“知識獲得”なんだなと。“なゼミ”(三宅なほみゼミの通称)生としては遅すぎる気づきかも知れないですが、こういう体験は、次の知的興奮を求める何よりのエサなんですよねぇ。 少なくとも夜中にこんな長文を書いて人に知らしめたくはなってます。こういう連鎖が起きる(起こしたくなる)ことも大事ですよね。

 ともあれ色々なところで少し気が楽になった気がします。

 とりあえず目前のセミナーでは、

  • 関連した情報の提示順にはあまりこだわらない
  • でもそれらの関連について自身での内省を促してみる
  • 連鎖的に人に話したくなるようなネタを用意する

といった辺りに留意してみようかと。

 

『古田さん、それって使いやすいですか?』第二回掲載

“使いやすさ”への取り組み / 古田さん、それって使いやすいですか? 第2回 | ricoh JAPAN

 株式会社リコーさんのサイトで書かせていただいているコラムの第2回が掲載されました。

 今回は自身で考えてみて下さい的な内容にしたので、写真というか具体事例がないのでちょっと寂しいですね。今後はなるべく入れて行きたいと思います。一方で自分でも考えてみる、というのも欠かせないと思っていますので、「問題と答え」っても引き続き何かしら含めていきたいと思っています。

 ご意見、ご感想などをお待ちしています。

 

群盲、象を撫でる~局所的知覚による誤解釈

 久々のユーザビリティ・パターン案の追加です。

下りエスカレーターの案内板

 家電量販点の店内の写真です。エスカレーター前に真っ赤に目立つ案内板が置かれています。実はこの奥にあるエスカレーターは上りなんです。2つ見えるのは、下から昇ってきたものと更に上に行くヤツがあるからです。下りのエスカレーターは写真右手に写っている食洗機コーナーの前を進んだ方向にありますよ、ということを示しているんです。この写真ではわかりにくいですが、左から歩いてきた時に見える向きに上りエスカレーターを示す黒い案内板も出ています。

 つまり、まっすぐこの写真の向きにエスカレーターに向かう人に、「おっと下りはあっち(右)ですよ」ということが言いたいんですが、たまたまエスカレーターの進行方向にマッチしているために、非常に紛らわしいことになってしまっています。


 おそらくもっと広く見渡して総合的に吟味をすれば間違えることはないのですが、ある視野角に切り取って局所的な情報だけで判断するとミスガイドになってしまう。こういうパターンって結構あるんじゃないでしょうか?

 例えばアプリケーションのメニュー項目を考えてみてください。ある機能がどのメニュー項目の中から実行できるか探している時に、あなたは全てのメニューを開いて全ての項目を吟味した上でもっともそれらしいものを選択するでしょうか。おそらくしないですよね?ひとつのプルダウン・メニューを開いて、その中にある程度それらしいものが見つかれば、まずそれを選んでみたりしますよね。

 つまりシステム全体が視野に入っている設計者が大丈夫だろうと思ってデザインしたものも、ユーザがある一部を切り取って認知した時には全く別の解釈が成り立ってしまうよね、という問題提起です。

 どうでしょう?パターンとしてアリでしょうか?またなんと名付けましょうか?

 思いつきでは、やはり「局所的」とかってキーワードが入るかと思います。逸話系のネーミングだと「群盲、象を撫でる」という言葉がありますね。確か仏教系の話です。目の見えないお坊さん達が象に触って、たまたま耳に触った人は「象とは大きくて平べったいものだ」と言い、足に触れた人は「象ってのは太い丸太みたいなものだ」と言う。みんな自分の触った部分の印象だけで表現して、ちっとも全体像にたどり着けない、というアレです。ちょっと正確なリファレンスを探したんですが見つかりませんでした。こういう文脈で使って適切かどうか、どなたか詳しい人がいらっしゃいましたらご教示いただければと思います。

自分にとって大事なこと≠他人にとって大事なこと

 どこぞの健康雑誌のダイエット特集で「脂肪炎上」という見出しが使われていて、どこぞの社会学の先生が「日本語としておかしい」云々を根拠に批判していた、という話を聞きました。激しくどうでも良い話ですね。こんなのはインパクト勝負なんで、コピーライターだってわかってやってるワケですし。

 ただ、もう少しメタ認知してみると、翻って我々ユーザビリティ屋だって似たようなことをしてる可能性が大いにあります。「ゴミを入れたら膨らむゴミ箱なんてこの世に存在しないんだから、そんなメタファーは適切ではない」なんて指摘をしても、世の中の人は多分誰も困っていないワケです。むしろ親しみがわいてポジティブな評価や効果を得られていることでしょう。

 我々は何かについて専門家になり、人が知らないことを知ってしまうと、それを知らない人に対して教えたくなります。おそらくその感情の奥にあるのは、人より優位に立ちたいといった類のものでしょう。マズローの五段階欲求説で言えば、承認欲求(社会的に評価されたいっ!)のあたり?この欲求を理性的に制御できないと、つい他者を貶めることで相対的に自分の自尊心を満足させる方向に走ってしまいがちになります。そんなコミュニケーションはまた別のネガティブな感情を呼びますし、建設的ではないですよね。

 ユーザビリティ(あるいは認知科学)は実世界で役に立ってナンボのショーバイです。常に実効性を重視し、個人の自尊心を満足させるための道具にはしないようにしたいものです。

 元々からしてユーザビリティ屋は“ダメ出し”が仕事なワケで敵を作りやすい。そんな中で、「デザイナーの奴らはこんな基本的なことも知らない。ユーザのことがなんにもわかってない。」なんて態度を丸出しにしていたら議論になるワケがありません。戒めていきたいものですね。

 以前のコラムで、 「人は自分が理解していることは、同様に他人も理解できる」と思いこんでしまいがちな性質をもっているという研究を紹介しましたが、逆に「ある事柄について知っているのは自分だけ」とか「最近知ったことは、まだ他人は知らないでいる」などと思いがちな性質なんてのもあるかも知れませんね。あるいはその情報価値に対する評価なのかも知れません。「自分にとって大事なことは、他人にとっても大事である」って思考なのかな?

 折しも、Normanが「エモーショナルデザイン」で、ユーザビリティ屋もデザイナーも設計者も、自分の価値観を他セクトに押しつけるだけでなく、協調して製品開発しないとダメだよ、と諭しておられる話と符合しますね。

 ひとつ前のエントリで触れた、人類が総体として賢くなるために乗り越えて行かなければならない壁のひとつだと思います。

認知科学会大会 ワークショップ所感

 7月29†31日に京都大学で開催された認知科学会第22回大会に参加してきました。

 色々と面白い発表もあったのですが、最終日のトリのワークショップのひとつ、「認知工学:設計のための認知科学」が個人的にエキサイティングだったのと、聞けずに帰った関東直帰組が内容を聞きたがっていたので、感想を書いてみます。内容のレポートというより、σ(^^)自身がインスパイアされて思い浮かべたことなので、その場にいなかった人にはちょっと通じにくいところがあったらごめんなさい。

 コーディネーターの三宅芳雄先生の主張は、「認知工学って言葉が登場して久しいけど、その実際はあまり確かではない。本当のところ認知“工学”とは一体なんなのか?」ということだったようです。デザイン的にはなんら問題のなさそうで、差異が明らかだと思われる新幹線の自動券売機、喫煙車と禁煙車のアイコンを間違えて押してしまう人が意外にいる(実はσ(^^)も間違えたことがあります)。しかし現在の知見では明確な理由付けができない。

 話題提供者のひとり、産総研の橋田さんは、機械が人を理解し、人が機械を理解するためには、セマンティック・ウェブの考え方のように、オントロジーによる構造記述を用いたユーザ・インターフェイスが必要なんじゃないの?という提起をされました。

 σ(^^)自身、卒業研究は英文の構造を二次元配置で表現できるようにするツールを試作したり、ユーザビリティ・パターンのようなものを考案してみたりと、 ユニヴァーサル・ランゲージを策定してコミュニケーションを効率化する系の考え方は好きなので同意。

 で、元の芳雄先生の話に戻ると、認知工学のために必要なことは、認知科学の知見を現場の人が再利用な形に構造化、一般化することなのかなと思いました(というか多分芳雄先生自身もそうおっしゃっていたと思います)。認知科学の根底的な考え方として「人の認知は状況依存性がとても強く、一般化は難しい、または意味がない」というのがあります。やはり話題提供者の三宅なほみ先生も今回のワークショップでも強調してらっしゃいました。ただ、Normanの『誰のためのデザイン』が広く受け入れられた理由のひとつは、そういった捉えにくい認知科学の知見を「対応付け」とか「フィードバック」とか「アフォーダンス」とかいった“わかりやすい”指針という形にブレイクダウン(?)したところだったように思います。実際、現場ではそういうレベルのガイドラインやチェックリストを常に期待されてしまいます。あまり詳しい知識がない人でも再利用可能なスキーマでなければならないわけです。このことと、認知科学では一般化を嫌うということは割と対極的であり、ジレンマなんだろうなと思う訳です。

 「見やすい表示のためには文字サイズやピッチは何mmあればいいですか?」と聞かれた認知科学屋は、「それは状況によりけりで一概には言えません」と答えるのが常だと思います。少なくとも現在の方法論ではそうとしか答えられません。でもそれでは現場の人が利用するのは難しいわけで、認知科学にとって大事なものをもうちょっとだけ犠牲にして、広く利用可能な“部品”の形に落とし込むのが認知工学なのかなと。認知科学を工学化するということは本質的に矛盾を含んでいて、「認知科学的なアプローチを保持した工学」ってのは難しくて、「認知科学の成果を(アカデミックな正当性はある程度諦めて)シュリンクした工学」くらいのものなのかなと。>認知工学

 スライド
 戸田先生の宣言の要約

 なほみ先生は、日本の認知科学の重鎮というか創設者のひとりであられる戸田正直先生がずっと以前にアジ的に宣言された「人は新しい技術や環境の中で、自身の認知過程を制御する術を見つけなければ、人類に未来はない。」(チョー要約)という言葉を引用され、認知科学の知見を全人類が共有することの重要性を説かれていました。先生は3年位前の大会でも「認知科学を基礎教養に」と主張されてましたが、確かにその通りだと思います。IT的に言えば、人の認知には様々な脆弱性があります。例えば先入観のようなバイアスに左右されやすいといった特性を悪用されてしまえば、容易に認知を制御されてしまいます。振り込め詐欺やぁゃιぃ宗教に洗脳されるのみならず、それこそ戦争推進派につけこまれて世界滅亡のシナリオに向かってしまう可能性だったあり得るわけです。それは認知特性である以上、完全に塞ぐことはできないセキュリティ・ホールなワケですが、少なくとも多くの人が自覚を持つことで破滅的な結末だけは回避できるはずです。むしろ、人類が総体としてより“賢く”なれることで、様々な進歩を得られるはず。もっと卑近な例でいえば、ちょっと意見するだけで気分を害してしまい、建設的な議論ができないアイツをなんとかできるはず、とかねw。

 今現在の認知科学の知見だけで本当にそれが実現できるかどうかわかりません。でもなほみ先生曰く、認知科学というのは(例えばファジー学会みたいな)ある特定の方法論で議論することを目的とした集まりではなく、人について探求するという志を持った人があらゆる方法論を持ち寄って取り組む学際的な場所である(べきである)。これは初日に食事をご一緒させていただいた場でも両三宅先生がおっしゃってましたし、なほみ先生は懇親会の会長挨拶でも「これからもそういう場であり続けよう」と強調されていました。そういう場であり続ける限り、いつかはそういう成果も得られるでしょう。

 そうした時に、それを広く一般に普及せしめるのが、認知工学(あるいは別の呼び方をされるべきかも知れない何か)であるのかも知れません。「認知科学って難しい」とワークショップでも言われていました。つまり、有益だが難しい何かを、噛み砕いて一般に利用しやすい形に落とし込む、まさに「認知科学のユーザビリティを向上させる」ってワケですね。

 学術研究としてはすっかり認知科学から遠のき気味なσ(^^)ですが、もしなにか貢献できるとしたらそこかも知れない、と思いました。σ(^^)の好きな言葉で言えば、認知科学エヴァジェリストw?

 来月やらせていただくHQLでのセミナーでは、とりあえず開発者コミュニティ限定ですが、少しでもそれに近いことができたらいいなぁ、なんて思ってみました。がんばろっと。