ユーザーテストの被験者やモデレーターの負担を図解する資料

Pocket

以前からセミナー資料とかに使いたかった図解資料を作成しました。絵心がないので、いつか誰かにお願いして描いてもらおうと思ってたんですが、ふと思い立ってとりあえずいらすとやさんのグラフィックを使わせていただきPowerPointの吹き出しパーツでお手軽に。いやぁ、いらすとやさんはなんでもあるなぁ。

ユーザテスト(UT)をしている時に、被験者の人はこんなに様々な不安と負担を追っているんで、モデレーターさんや実験計画立てる人はそれを意識して軽減してあげるよう気配りをしましょう、という啓蒙の図です。解決方法はケースバイケースで、調査目的とのトレードオフを図りながあら考える必要があるので、あえて触れていません。問題提起、問いかけのみです。あなたならどうしますか?

%e8%a2%ab%e9%a8%93%e8%80%85%e3%81%ab%e3%81%ae%e3%81%97%e3%81%8b%e3%81%8b%e3%82%8b%e4%b8%8d%e5%ae%89%e3%81%a8%e8%b2%a0%e6%8b%85

ついでにこちらはモデレーター(進行役)もこんなに同時に色々気にしなくちゃならなくて大変なんです。周りがカバーして負荷分散しましょう的なバージョン。

%e3%83%a2%e3%83%87%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%81%ab%e3%81%ae%e3%81%97%e3%81%8b%e3%81%8b%e3%82%8b%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%96%e3%83%ab%e3%81%a8%e8%b2%a0%e6%8b%85

うっかり16:9で作ってしまいちょっぴり汎用性に難アリですが、とりあえず公開。どうぞご自由にお使いください。出典として「道具眼」をクレジットしてもらえると嬉しいです。また改変、翻訳などもご自由に。いいのが出来たら是非教えてください。

元のパワポデータはGitHubに置いてみました。

夢見る脳

Pocket

 今日、たまたま見た夢から自分の精神状態を云々している友達のmixi日記を見て、ふと大学生の頃に読んだ本を思い出しました。人は夢をどうして見るのかについて最新の(といってももう1992年出版)理論を展開している本で、フロイトの精神分析的な理論をバッサリ否定しています。「フロイトのせいで、夢の科学は100年は遅れ、いまなお大いなる悪影響の下にある」みたいなことを書いてたのが印象的でした。

 (当時読んだ記憶を元に書くと確か、)この本の主張によると、細胞が寝ている間に生体電気的なノイズを発していて、それを外来の感覚刺激と区別できない脳が意味のある情報として解釈しようとした結果が夢である、ということだったと思います。つまり、本来はランダムパターンでしかない電位信号を、例えば視神経方面から来たらそれを視覚刺激だと思って解釈してしまうということですね。当然本来は整合が取れない入力なんですが、視覚、聴覚、触覚、更には思考にいたるまで、通常認知と同様に記憶などを活用してトップダウン的に補完を行い、一応筋の通った“体験”に仕立ててしまうんだからスゴいですよね。夢が矛盾してたり非現実的だったりするのは、そもそもが一貫した意味のある入力を元にしてないから当然なんですね。

the_cat.png

 右の図を見てください。これは人間の知覚が脳のトップダウン的なバイアスを受けて歪むことを示している有名な図版です。「THE CAT」と書いてありますよね?でも実は、二文字目と五文字目は脳への知覚刺激としては同じ入力のはずなんです。しかし、前後の文字と単語に関する記憶が知覚を“歪めて”しまうために、認知結果が異なってしまうんですね。恐らく上で言っている夢の解釈も、これのすごく高度で複雑な処理が行われて、なんとか意味のあるものに仕上がる、というワケです。

 当時認知の状況依存的な性質についての知識があったかどうか定かではないですが、今、認知の知識を多少なりとも得た状態で考えると、逆に昼間起きているうちに行っている認知活動だって、本質的にはこれくらい「でっちあげ」に近いバイアスを受けていたって不思議ではないということに気付きます。もちろん現実世界からの刺激はずっと系統立っているし、そもそもそれと一貫した刺激を長年受けることで構築してきたデータベースを使って解釈を試みるわけですから、基本的にはそうヒドい矛盾が起きたりとかはしないんですけどね。でも言ってしまえば、人の“現実”感なんてのもその程度のもの(過去の記憶と矛盾しない)でしかないのかも、と思ったり。

 今、この本が研究の最先端でどういう位置づけにあるのかは知りませんが、これを読んだ時、なんだかスゴく興奮しました。もともとカウンセラー志望で心理学科を選んだものの、勉強してみて「なんか違うな」と思い、3年で知覚、記憶などを扱う基礎心理学系のゼミを選んだ頃だったのも重なったんでしょう。もともと既存の概念を根底からひっくり返すような発言や思考が大好きですし(^^;)。一時は真面目に卒論で夢について取り組みたいと思ってました。実験が大変だから無理と教官に止められましたがw…

インターフェイス研究が教育/学習理論にならうべきこと

Pocket

 TCシンポジウム(マニュアル屋さんの集い)でのパネル討論に参加してきました。

 とりあえずやっぱり緊張すると早口になってしまう癖が出てしまいました。反省。聞いてくださった方、聞きづらかったかと思います。ごめんなさい。

 パネルの議題は、「使い手中心のマニュアル作りはどうあるべきか?」のようなものでした。σ(^^)の方で問題提起してみたのは3点。

  • 背景理解を誘発しない今のマニュアル
  • ジャーゴンってそんなに悪いもの?
  • 熟達者にも簡単シートを!

の三点です(なんかサザエさんの予告みたいだw)。今回のシンポジウムは「脱皮」がテーマだったので、あえて従来アプローチからすればアンチ的な要素を

■背景理解を誘発しない今のマニュアル

 現在の「取り扱い」説明書って、取り扱い方法、つまり手続き的な操作方法を伝達することを第一義としていますよね。でもそれって、σ(^^)が学生だった頃(σ(^^)は第二次ベビーブーム頂点世代)に盛んだった、詰め込み型の教授法そのものです。こういう方法で“使い方だけ”を詰め込まれた文法や公式は、役に立たない(学習者が現実の問題に適用し利用することができない)ことは実感される方は多いのではないでしょうか?

 最近の事例だと、無線LANルーターなんかについてくる「簡単設定シート」みたいなものが例に挙げられます。画面写真と「こう操作してください」の羅列で、「はい、Yahooが見えました。おめでとう。インターネット開通です!」みたいなアレです。その過程には無線LANの接続設定、ルーターのプロバイダ設定、プロバイダのIP電話設定、Yahooトップ画面と様々なものが含まれますが、簡単設定シートだけを読んだユーザからすれば、全てブラウザ上に表示されるもの=インターネットになっちゃいます。だからある日ネットが見えなくなっても、無線が圏外なのか、プロバイダがメンテなのか、相手サーバーが落ちてるのかといった切り分けはできずにただ「インターネットがつながらないっ!」になっちゃう訳です。

 メーカーも「背景理解抜きで使える製品」をウリにしたいでしょう。もちろんユーザだって「ただ使えりゃいい」、「背景知識は知らずに済ませたい」でしょう。でもね、それは

悪いけど今日明日には無理!

そういうものを目指して頑張る人は常に必要ですが、一方で僕らは今日困っている人を助けてあげなきゃならない。そこで理想や体面は二の次。ユーザさんに頭下げて「すみませんけどちょっと時間使って、これだけは理解してといてください。そしたら今よりずっと使えるようになるはずです。」と言える潔さを持ち、なおかつユーザに対しても啓蒙をしていくべきなんじゃないでしょうか?

 カーナビの音声認識技術だって波形マッチングやってるという理解でない人に「決まった言葉しか理解できません」と説明だけしても、「千葉県と滋賀県はいつも間違えるくせに、検索と探索なんて似たような意味の言葉は融通聞かせて受け付けてはくれやしない!」ってことになりますよね。ちょっと時間使って波形マッチングのメンタルモデルが頭の中にあれば、意味の類似度ではなく発音の類似度が重要ってことがわかって、より誤認識されにくいしゃべり方が自然とできるようになると思います。

 難しい概念を隠蔽するとか、かわりに自動でやってあげる、というアプローチもまた教育論的にはすでに時代遅れで、いま教育現場は必死にそれから脱却しようとしています(以前のエントリも参照いただければと思います)。

 ちなみに誤解しないでいただきたいのは、背景知識理解“だけ”を推し進めてもダメだということです。僕らの世代の中学英語は「This is a pen.」というもっとも基本的な文法構造から初めて徐々に複雑な表現形態を覚えて行くの積み上げ式が良いと信じられていました。ところが現在の教科書でLesson 1は「How are you?」から始まります。いきなり疑問文です。もちろん疑問文なのが重要なのではなく、現実場面でもっとも有益な知識だからです。ちなみにアメリカの幼稚園の作文授業ではいきなり「通販で買った花瓶が割れてました。クレームのお手紙を出してみましょう」あたりから始まるんだそうです。文法概念なんてのは使ってるうちに身に付く。そこの理解は目的ではない訳です。不規則動詞を思い出してください。英語の不規則動詞は皆さん暗記的に覚えさせられたと思いますが、日本語の不規則変化な誰に習うでもなく使いこなせていますよね?つまり学習ってのはその知識を使うべき場面で自然に起こるもので、知識単体で“伝達”してもしょうがないんだ、という考え方です(ここいらも上でリンク張ったエントリで触れてます)。

 背景知識だけ詰め込んでもダメ。先ほどの「簡単設定シート」の類でユーザが「さぁ、インターネットつなぐぞぉ!」って気になってる時に、上手く背景知識を織り込んであげるのが理想なんじゃないでしょうか。

 インターフェイス分野でもこういった教育/学習理論の知見の中に倣うべきものは非常に多いのではないでしょうか?マニュアル込みで製品の学習を“デザイン”しましょうというお話。

■ジャーゴンってそんなに悪いもの?

 これは以前にコラムでも取り扱ってます。そもそも人は放っておいてもジャーゴンを作る(時にはそれ自体を楽しみさえもする)じゃないですか。マルキューとかシロガネーゼとかw。それって実はヒトとしての基本的な方略だし、コミュニケーションの効率化に大事だよね、って話。

 こないだ買ったEverioではデフラグのことを「ディスクの整理」と呼んでました。専門用語を独自の身近な日常語で置き換えることはよくやられますが、本当に有効でしょうか?冗長になってマニュアルが分厚くなるし、別メーカーのものに買い換えたら通じないし、せっかくデフラグを勉強していた上級ユーザにも通じない。たぶん店員さんに「これのディスクの整理をしてたら…」と質問しても「は?」とか言われちゃいますよね。

 もちろん、マルキューやシロガネーゼみたいなすぐに意味がわかるジャーゴンをデザインすることは大事だし、扱う概念自体が新規なものなその理解に対する“足場かけ”は重要だとは思います。

■熟達者向けにも簡単参照シートを!

 熟達者でもマニュアル見ないと使えない情報ってあります。例えばケータイの初暗証唱番号とか、ルーターの管理ページのアドレスとかですね。こういうのって、初心者向けの冗長な説明フローの中に埋もれていたり、時には上記の例の様に呼び方すらかえられてマニュアルのどっかに埋もれています。「玄人はこれだけで充分。玄人でもこれだけは必須」って情報を、呼び方やフォーマット決めて、マニュアルの裏表紙に書いとく、みたいなデ・ファクトを確立したい今日この頃です。

 とまぁ、そんな感じで話をしてきました。How toやWhat is型の情報は今後、どんどんオンラインヘルプの延長としてシステム自体に組み込まれて行くでしょう。そんな中で依然としてマニュアル(紙であれ電子媒体であれ)の役割として残るのは背景概念の説明の部分なんじゃないでしょうか?単なる“取り扱い”説明書ではなく学習書、簡単設定シートだけではなく簡単理解シートも添付しようよ、って言ってみる。

知識ってのはシリアライズできるものじゃない

Pocket

 HQLでのセミナーの準備をしながら気づいたことのメモ。

■知識をシリアライズすることの矛盾

  冒頭の認知科学の基礎的なトピックのスライドを作っていて、なかなか順番が決まらずに困っていました。記憶、知識、学習といった部分は相互にからみあっていて、どこから説明するのが良いものか。できるなら、基礎的な内容から順番に触れていって、「これはさっき説明した○○に基づいています」と徐々に発展していくのが、綺麗でわかりやすいはずだ、と思っていたワケです。算数なんかの授業モデルですよね。

 が、これがそもそもあまり意味がない、もしくはよろしくないということがわかってきました。最新の学習理論的に言えば、そもそも人の知識獲得というのがそういうプロセスで起きていないんです。一見関連が見えない様々な事象を見たり聞いたりして、自分の中でそれらを結びつけて考えたり、帰納的推論を行って一般化したりする。それこそが学習の本質であって、学習者の中で自発的にそれが起きなければあまり意味がない。綺麗に系統立てて教えてあげてもフーンってなもんで流れていってしまう。むしろ、時には情報同士で矛盾すら起きて、それを合理的に説明してみる、といった活動がなければ身にはついていかない。

 恐らくそもそも自分の頭の中にある知識がそうして獲得してきたものなので、それをシリアライズして他人に伝達できる類のものじゃ無かったんです。σ(^^)は、インターフェイスの問題点を予測したり説明したりできる(まぁ、仕事して食べていけてる程度には)。それは誰かに「こうすればいいよ」と教わったものではなくて、好きで色々な道具に触れてきた中で得た膨大な商品知識、大学で得た認知科学に関する知識、仕事で得た経験などが複雑に組織化されて今の自分のスキルを構成しています。そしてそれを後進達にも継承していかなければならないワケですが、あまり上手くいっていません。それが何故なのか少しわかったような気がします。

 σ(^^)はユーザビリティ屋なので、自分の話が聞き手(読み手)にとって、スンナリ理解しやすいように整理し、系統立てて説明することにこだわりを持っていました。なので、自分の中のノウハウをなんとかシリアライズすることに固執していたところがあります。「これを読めば一通りのことがわかるよ」的なものを目指していたワケです。ですが、元々シリアルにσ(^^)の脳に入力された情報ではなかったものを、シリアルに出力して他人に伝達できようはずがないのです。そして、仮にそれができたとしても、相手の側でもそれがあんまり理想的な入力形態ですらないワケです。

■系統立てて整理してあげるのはダメ?

 もちろん、情報を系統立てて順序良く整理することの価値は依然として充分にあるでしょう。帰納的推論の過程が大事だといっても、すべての人が同じ事象を見聞きして、そこから同じ推論をして同じ一般解に辿り着く、なんてのは効率が悪すぎます。セミナーでそんなことしたら顰蹙の嵐でしょうね(笑)。ただよく言われるような「本当に大事なところは本人に考えさせる」みたいなスタンスは織り交ぜていかないと、σ(^^)達が受けてきた上意下達的教育から進歩していないことになります。セミナーではその辺のバランスを上手くとって、ジグソーと呼ばれる方式で、参加者自身で異なった資料を読んで理解してもらい、それをグループ内で説明しあって、それらの間で一般化できる知識を見いだしてもらう、ということをしてもらう予定です。これは最近の教育研究の中で注目されている授業形態です。そうすることでより深く理解をしてもらい、頭に染みこませてもらいつつ、人間の理解過程の本質についてその場でプチ体験してもらえたらなと思っています。決して講師がラクだからとかではありませんので、お間違えなきよう(笑)。>参加者の方

 多分、受け手の情報解釈への態度やスキルにも絡んだ話だと思います。綺麗に系統立てて話されたことの中からでも自分なりの一般化をしていける人もいるでしょうし、フーンで終わってしまう人もいるでしょう。人の違いもあれば、その内容に興味があるかどうかにも寄ってくるでしょう。前者に属する人は、基本的にあまりオーガナイズされた情報でなくても良いことになります。逆に後者の人にはどうするのが良いでしょう?自分で情報をオーガナイズするスキルがなければ雑多な入力は意味をなさないし、過度に整理された情報を一方的にガーっと入力されても目を回すだけです。バランスの問題と、そもそもどう興味を持たせるか、みたいなことなんですかね。

 少なくとも旧来の教育では与えられた情報をオーガナイズする術そのものについてはほとんど扱ってこなかったことは確かであり、そこは問題なんでしょう。そして、興味を持てずにドロップアウトしていく子供のために、やさしくやさしく情報をかみ砕いて整理したものを押しつける方向に流れていってしまいがちだったのが失敗だったのかも。

■正しい教育のあり方

 ヴィゴツキーという人が提唱した“発達の最近接領域”(Zone of Proximal Development)という考え方があります。ある子供がある段差を「乗り越えられない状態」から、「自力でそれができるようになる状態」までの間に、大人が足場をかけてやるなどの手助けをしてやればできる状態」というのがある。大人(教育者)の役目はその“足場かけ”(Scaffolding)を適切なレベルで行うことであって、無理だからと段差から遠ざけたり、段差の上に持ち上げてやったりするんじゃダメだよね、という考え方です。情報を与える側が系統立ててやるばかりでもなく、未整理なまま与えて放置するでもなく、学習者の中で推論や矛盾や問題解決といった知的活動が常に適切なレベルで起きるような与え方を苦心して考えていかなきゃならないってことですね。

■単なる知識が“心の糧”となる興奮

 さて、今日の結論は、読み手のわかりやすさはあんまり気にせずに、散文的に書き散らしていって、読み手が勝手に再構成するまかせりゃーいいんじゃん、ってことだろうか(笑)。まぁ、それは極論だとしても、σ(^^)の古巣のような認知教育系の研究では至極当たり前のこんなこと、トピックとしては在学中にも何度か耳にしていたはずですが、今それを人に教える立場になってみることで、ようやくそれらのエピソードが有機的に結びつき、自分にとって意味あるものに“化けた”気がします。これが本当に糧としての“知識獲得”なんだなと。“なゼミ”(三宅なほみゼミの通称)生としては遅すぎる気づきかも知れないですが、こういう体験は、次の知的興奮を求める何よりのエサなんですよねぇ。 少なくとも夜中にこんな長文を書いて人に知らしめたくはなってます。こういう連鎖が起きる(起こしたくなる)ことも大事ですよね。

 ともあれ色々なところで少し気が楽になった気がします。

 とりあえず目前のセミナーでは、

  • 関連した情報の提示順にはあまりこだわらない
  • でもそれらの関連について自身での内省を促してみる
  • 連鎖的に人に話したくなるようなネタを用意する

といった辺りに留意してみようかと。

 

自分にとって大事なこと≠他人にとって大事なこと

Pocket

 どこぞの健康雑誌のダイエット特集で「脂肪炎上」という見出しが使われていて、どこぞの社会学の先生が「日本語としておかしい」云々を根拠に批判していた、という話を聞きました。激しくどうでも良い話ですね。こんなのはインパクト勝負なんで、コピーライターだってわかってやってるワケですし。

 ただ、もう少しメタ認知してみると、翻って我々ユーザビリティ屋だって似たようなことをしてる可能性が大いにあります。「ゴミを入れたら膨らむゴミ箱なんてこの世に存在しないんだから、そんなメタファーは適切ではない」なんて指摘をしても、世の中の人は多分誰も困っていないワケです。むしろ親しみがわいてポジティブな評価や効果を得られていることでしょう。

 我々は何かについて専門家になり、人が知らないことを知ってしまうと、それを知らない人に対して教えたくなります。おそらくその感情の奥にあるのは、人より優位に立ちたいといった類のものでしょう。マズローの五段階欲求説で言えば、承認欲求(社会的に評価されたいっ!)のあたり?この欲求を理性的に制御できないと、つい他者を貶めることで相対的に自分の自尊心を満足させる方向に走ってしまいがちになります。そんなコミュニケーションはまた別のネガティブな感情を呼びますし、建設的ではないですよね。

 ユーザビリティ(あるいは認知科学)は実世界で役に立ってナンボのショーバイです。常に実効性を重視し、個人の自尊心を満足させるための道具にはしないようにしたいものです。

 元々からしてユーザビリティ屋は“ダメ出し”が仕事なワケで敵を作りやすい。そんな中で、「デザイナーの奴らはこんな基本的なことも知らない。ユーザのことがなんにもわかってない。」なんて態度を丸出しにしていたら議論になるワケがありません。戒めていきたいものですね。

 以前のコラムで、 「人は自分が理解していることは、同様に他人も理解できる」と思いこんでしまいがちな性質をもっているという研究を紹介しましたが、逆に「ある事柄について知っているのは自分だけ」とか「最近知ったことは、まだ他人は知らないでいる」などと思いがちな性質なんてのもあるかも知れませんね。あるいはその情報価値に対する評価なのかも知れません。「自分にとって大事なことは、他人にとっても大事である」って思考なのかな?

 折しも、Normanが「エモーショナルデザイン」で、ユーザビリティ屋もデザイナーも設計者も、自分の価値観を他セクトに押しつけるだけでなく、協調して製品開発しないとダメだよ、と諭しておられる話と符合しますね。

 ひとつ前のエントリで触れた、人類が総体として賢くなるために乗り越えて行かなければならない壁のひとつだと思います。

認知科学会大会 ワークショップ所感

Pocket

 7月29†31日に京都大学で開催された認知科学会第22回大会に参加してきました。

 色々と面白い発表もあったのですが、最終日のトリのワークショップのひとつ、「認知工学:設計のための認知科学」が個人的にエキサイティングだったのと、聞けずに帰った関東直帰組が内容を聞きたがっていたので、感想を書いてみます。内容のレポートというより、σ(^^)自身がインスパイアされて思い浮かべたことなので、その場にいなかった人にはちょっと通じにくいところがあったらごめんなさい。

 コーディネーターの三宅芳雄先生の主張は、「認知工学って言葉が登場して久しいけど、その実際はあまり確かではない。本当のところ認知“工学”とは一体なんなのか?」ということだったようです。デザイン的にはなんら問題のなさそうで、差異が明らかだと思われる新幹線の自動券売機、喫煙車と禁煙車のアイコンを間違えて押してしまう人が意外にいる(実はσ(^^)も間違えたことがあります)。しかし現在の知見では明確な理由付けができない。

 話題提供者のひとり、産総研の橋田さんは、機械が人を理解し、人が機械を理解するためには、セマンティック・ウェブの考え方のように、オントロジーによる構造記述を用いたユーザ・インターフェイスが必要なんじゃないの?という提起をされました。

 σ(^^)自身、卒業研究は英文の構造を二次元配置で表現できるようにするツールを試作したり、ユーザビリティ・パターンのようなものを考案してみたりと、 ユニヴァーサル・ランゲージを策定してコミュニケーションを効率化する系の考え方は好きなので同意。

 で、元の芳雄先生の話に戻ると、認知工学のために必要なことは、認知科学の知見を現場の人が再利用な形に構造化、一般化することなのかなと思いました(というか多分芳雄先生自身もそうおっしゃっていたと思います)。認知科学の根底的な考え方として「人の認知は状況依存性がとても強く、一般化は難しい、または意味がない」というのがあります。やはり話題提供者の三宅なほみ先生も今回のワークショップでも強調してらっしゃいました。ただ、Normanの『誰のためのデザイン』が広く受け入れられた理由のひとつは、そういった捉えにくい認知科学の知見を「対応付け」とか「フィードバック」とか「アフォーダンス」とかいった“わかりやすい”指針という形にブレイクダウン(?)したところだったように思います。実際、現場ではそういうレベルのガイドラインやチェックリストを常に期待されてしまいます。あまり詳しい知識がない人でも再利用可能なスキーマでなければならないわけです。このことと、認知科学では一般化を嫌うということは割と対極的であり、ジレンマなんだろうなと思う訳です。

 「見やすい表示のためには文字サイズやピッチは何mmあればいいですか?」と聞かれた認知科学屋は、「それは状況によりけりで一概には言えません」と答えるのが常だと思います。少なくとも現在の方法論ではそうとしか答えられません。でもそれでは現場の人が利用するのは難しいわけで、認知科学にとって大事なものをもうちょっとだけ犠牲にして、広く利用可能な“部品”の形に落とし込むのが認知工学なのかなと。認知科学を工学化するということは本質的に矛盾を含んでいて、「認知科学的なアプローチを保持した工学」ってのは難しくて、「認知科学の成果を(アカデミックな正当性はある程度諦めて)シュリンクした工学」くらいのものなのかなと。>認知工学

 スライド
 戸田先生の宣言の要約

 なほみ先生は、日本の認知科学の重鎮というか創設者のひとりであられる戸田正直先生がずっと以前にアジ的に宣言された「人は新しい技術や環境の中で、自身の認知過程を制御する術を見つけなければ、人類に未来はない。」(チョー要約)という言葉を引用され、認知科学の知見を全人類が共有することの重要性を説かれていました。先生は3年位前の大会でも「認知科学を基礎教養に」と主張されてましたが、確かにその通りだと思います。IT的に言えば、人の認知には様々な脆弱性があります。例えば先入観のようなバイアスに左右されやすいといった特性を悪用されてしまえば、容易に認知を制御されてしまいます。振り込め詐欺やぁゃιぃ宗教に洗脳されるのみならず、それこそ戦争推進派につけこまれて世界滅亡のシナリオに向かってしまう可能性だったあり得るわけです。それは認知特性である以上、完全に塞ぐことはできないセキュリティ・ホールなワケですが、少なくとも多くの人が自覚を持つことで破滅的な結末だけは回避できるはずです。むしろ、人類が総体としてより“賢く”なれることで、様々な進歩を得られるはず。もっと卑近な例でいえば、ちょっと意見するだけで気分を害してしまい、建設的な議論ができないアイツをなんとかできるはず、とかねw。

 今現在の認知科学の知見だけで本当にそれが実現できるかどうかわかりません。でもなほみ先生曰く、認知科学というのは(例えばファジー学会みたいな)ある特定の方法論で議論することを目的とした集まりではなく、人について探求するという志を持った人があらゆる方法論を持ち寄って取り組む学際的な場所である(べきである)。これは初日に食事をご一緒させていただいた場でも両三宅先生がおっしゃってましたし、なほみ先生は懇親会の会長挨拶でも「これからもそういう場であり続けよう」と強調されていました。そういう場であり続ける限り、いつかはそういう成果も得られるでしょう。

 そうした時に、それを広く一般に普及せしめるのが、認知工学(あるいは別の呼び方をされるべきかも知れない何か)であるのかも知れません。「認知科学って難しい」とワークショップでも言われていました。つまり、有益だが難しい何かを、噛み砕いて一般に利用しやすい形に落とし込む、まさに「認知科学のユーザビリティを向上させる」ってワケですね。

 学術研究としてはすっかり認知科学から遠のき気味なσ(^^)ですが、もしなにか貢献できるとしたらそこかも知れない、と思いました。σ(^^)の好きな言葉で言えば、認知科学エヴァジェリストw?

 来月やらせていただくHQLでのセミナーでは、とりあえず開発者コミュニティ限定ですが、少しでもそれに近いことができたらいいなぁ、なんて思ってみました。がんばろっと。

HQL講座「人間生活工学」で講師

Pocket


 今年も去年に続き、HQL(社団法人人間生活工学研究センター)開催のセミナー「人間生活工学」で、「7 人間構造と特性の理解と製品展開」シリーズの「認知特性の基礎とユーザビリティ」という演習講座の講師を務めさせていただくことになりました。

 今回は演習とは言え、持ち時間が7時間もある全日講習なので、どんなネタを盛り込もうか思案中です。ユーザビリティ絡みの仕事をするのに知っておくと有益な、ヒトの理解や判断の特性や制約についての研究事例の紹介と、せっかく演習なのでその場で体験してみられるような簡単な実験を盛り込んでみたいと思っています。
 ちなみに去年はこれ系[道具眼コラム]の事例を色々と、Normanの「Emotional Design」の感情モデルの話[道具眼コラム]などを紹介し、それらをユーザビリティ評価や設計の文脈の中ではどう留意しておくべきか、などをご説明したりしました。「Emotional Design」、日本語版出ちゃいましたし、今年はどうしたものか…
 ご要望などあれば、お待ちしております。


P.S.
 ちなみに去年は、知覚編の先生と半分ずつセットの講座だったんですが、早々と全席SOLD OUTだったそうです。さて、今年は我々道具眼のみでいかほどの集客力があるやら…