2004年09月01日
先日某所でセミナーの講師をした時に仕入れたネタをば。
ヒトは自分が知っていることを、他人も知っていることのように誤認してしまう傾向がある、ということを客観的事実として検証しようという認知科学のトレンドについてです。
従来、Theory of Mind[進化研究と社会 用語集]と呼ばれる発達心理学の研究で、子供は自分と他者の心を別個のものとして捉えることができない、といったことが実証されてきました。
有名なサリーとアンの実験を紹介しましょう。
アンはボールを箱Aにしまい、部屋を出て行きました。そこへサリーが来てボールを箱Aから箱Bに移し替えてしまいます。そこへアンが戻ってきてボールを取り出そうとするのはA、Bどちらの箱でしょう?
このような問題を子供に出すと、だいたい3〜4才以下では「B」と答えてしまうんだそうです。つまり、ボールが移ったことを知っている自分という存在とは別に、ボールの移動を知らない“はず”という別の人格、アンを想定することができていない、ということを示唆しています。この研究は80年代から議論されて来たもので、未成熟な子供はこういう傾向があるんだよね、ってノリで言われてきました。
ところが最近の研究で、大人だって実はそこの切り分けが完全にはできていないかも知れない、ということが示唆されるようになってきたのです。この研究トピックはいくつかの呼ばれ方があるようですが、個人的には「Curse of Knowledge」というのがお気に入りです。ここでは「知識の呪縛」とでも訳しましょう。
こんな実験があります。
ミシシッピ川って1万マイルよりも長いでしょうか、短いでしょうか?
たいていの被験者は自信を持って答えられないでしょう。その後で、正解を教える群と教えない群に分け、既有知識を統制します。続いて、
ところで、これは世間ではどのくらいの人が知っているでしょうね?
ちょっと元論文が見つからないので、詳しい数値はわからないのですが、正解を教えた群の方がより多めに見積もる、つまり世間的には常識である、という方向に判断しがちである、という傾向が出るんだそうです。
自分が知っているということが、他人も知っていそうかどうかという判断にバイアスをかけてしまう、ということですね。平たく言えばヒトは表題の通り「自分の常識は他人にとっても常識」と信じてしまう性質を持っているらしい、ということですね。
我々ユーザビリティ屋は、インターフェイス・デザイナーにとって当たり前のことも、ユーザにとってはそうでないんだ、ということを口をすっぱくして言ってきたワケですが、それってこういう文脈に限ったことではなくて、広くヒトの認知の基本性質だったんですね。デザイナーがユーザに、教師が生徒に、上司が部下に「わかれよ、これくらい!」とか思っちゃうのって、無理からぬことであると同時に、多分無理なことを要求しているんでしょうね。