7月29†31日に京都大学で開催された認知科学会第22回大会に参加してきました。
色々と面白い発表もあったのですが、最終日のトリのワークショップのひとつ、「認知工学:設計のための認知科学」が個人的にエキサイティングだったのと、聞けずに帰った関東直帰組が内容を聞きたがっていたので、感想を書いてみます。内容のレポートというより、σ(^^)自身がインスパイアされて思い浮かべたことなので、その場にいなかった人にはちょっと通じにくいところがあったらごめんなさい。
コーディネーターの三宅芳雄先生の主張は、「認知工学って言葉が登場して久しいけど、その実際はあまり確かではない。本当のところ認知“工学”とは一体なんなのか?」ということだったようです。デザイン的にはなんら問題のなさそうで、差異が明らかだと思われる新幹線の自動券売機、喫煙車と禁煙車のアイコンを間違えて押してしまう人が意外にいる(実はσ(^^)も間違えたことがあります)。しかし現在の知見では明確な理由付けができない。
話題提供者のひとり、産総研の橋田さんは、機械が人を理解し、人が機械を理解するためには、セマンティック・ウェブの考え方のように、オントロジーによる構造記述を用いたユーザ・インターフェイスが必要なんじゃないの?という提起をされました。
σ(^^)自身、卒業研究は英文の構造を二次元配置で表現できるようにするツールを試作したり、ユーザビリティ・パターンのようなものを考案してみたりと、 ユニヴァーサル・ランゲージを策定してコミュニケーションを効率化する系の考え方は好きなので同意。
で、元の芳雄先生の話に戻ると、認知工学のために必要なことは、認知科学の知見を現場の人が再利用な形に構造化、一般化することなのかなと思いました(というか多分芳雄先生自身もそうおっしゃっていたと思います)。認知科学の根底的な考え方として「人の認知は状況依存性がとても強く、一般化は難しい、または意味がない」というのがあります。やはり話題提供者の三宅なほみ先生も今回のワークショップでも強調してらっしゃいました。ただ、Normanの『誰のためのデザイン』が広く受け入れられた理由のひとつは、そういった捉えにくい認知科学の知見を「対応付け」とか「フィードバック」とか「アフォーダンス」とかいった“わかりやすい”指針という形にブレイクダウン(?)したところだったように思います。実際、現場ではそういうレベルのガイドラインやチェックリストを常に期待されてしまいます。あまり詳しい知識がない人でも再利用可能なスキーマでなければならないわけです。このことと、認知科学では一般化を嫌うということは割と対極的であり、ジレンマなんだろうなと思う訳です。
「見やすい表示のためには文字サイズやピッチは何mmあればいいですか?」と聞かれた認知科学屋は、「それは状況によりけりで一概には言えません」と答えるのが常だと思います。少なくとも現在の方法論ではそうとしか答えられません。でもそれでは現場の人が利用するのは難しいわけで、認知科学にとって大事なものをもうちょっとだけ犠牲にして、広く利用可能な“部品”の形に落とし込むのが認知工学なのかなと。認知科学を工学化するということは本質的に矛盾を含んでいて、「認知科学的なアプローチを保持した工学」ってのは難しくて、「認知科学の成果を(アカデミックな正当性はある程度諦めて)シュリンクした工学」くらいのものなのかなと。>認知工学
戸田先生の宣言の要約 |
なほみ先生は、日本の認知科学の重鎮というか創設者のひとりであられる戸田正直先生がずっと以前にアジ的に宣言された「人は新しい技術や環境の中で、自身の認知過程を制御する術を見つけなければ、人類に未来はない。」(チョー要約)という言葉を引用され、認知科学の知見を全人類が共有することの重要性を説かれていました。先生は3年位前の大会でも「認知科学を基礎教養に」と主張されてましたが、確かにその通りだと思います。IT的に言えば、人の認知には様々な脆弱性があります。例えば先入観のようなバイアスに左右されやすいといった特性を悪用されてしまえば、容易に認知を制御されてしまいます。振り込め詐欺やぁゃιぃ宗教に洗脳されるのみならず、それこそ戦争推進派につけこまれて世界滅亡のシナリオに向かってしまう可能性だったあり得るわけです。それは認知特性である以上、完全に塞ぐことはできないセキュリティ・ホールなワケですが、少なくとも多くの人が自覚を持つことで破滅的な結末だけは回避できるはずです。むしろ、人類が総体としてより“賢く”なれることで、様々な進歩を得られるはず。もっと卑近な例でいえば、ちょっと意見するだけで気分を害してしまい、建設的な議論ができないアイツをなんとかできるはず、とかねw。
今現在の認知科学の知見だけで本当にそれが実現できるかどうかわかりません。でもなほみ先生曰く、認知科学というのは(例えばファジー学会みたいな)ある特定の方法論で議論することを目的とした集まりではなく、人について探求するという志を持った人があらゆる方法論を持ち寄って取り組む学際的な場所である(べきである)。これは初日に食事をご一緒させていただいた場でも両三宅先生がおっしゃってましたし、なほみ先生は懇親会の会長挨拶でも「これからもそういう場であり続けよう」と強調されていました。そういう場であり続ける限り、いつかはそういう成果も得られるでしょう。
そうした時に、それを広く一般に普及せしめるのが、認知工学(あるいは別の呼び方をされるべきかも知れない何か)であるのかも知れません。「認知科学って難しい」とワークショップでも言われていました。つまり、有益だが難しい何かを、噛み砕いて一般に利用しやすい形に落とし込む、まさに「認知科学のユーザビリティを向上させる」ってワケですね。
学術研究としてはすっかり認知科学から遠のき気味なσ(^^)ですが、もしなにか貢献できるとしたらそこかも知れない、と思いました。σ(^^)の好きな言葉で言えば、認知科学エヴァジェリストw?
来月やらせていただくHQLでのセミナーでは、とりあえず開発者コミュニティ限定ですが、少しでもそれに近いことができたらいいなぁ、なんて思ってみました。がんばろっと。