HQLでのセミナーの準備をしながら気づいたことのメモ。
■知識をシリアライズすることの矛盾
冒頭の認知科学の基礎的なトピックのスライドを作っていて、なかなか順番が決まらずに困っていました。記憶、知識、学習といった部分は相互にからみあっていて、どこから説明するのが良いものか。できるなら、基礎的な内容から順番に触れていって、「これはさっき説明した○○に基づいています」と徐々に発展していくのが、綺麗でわかりやすいはずだ、と思っていたワケです。算数なんかの授業モデルですよね。
が、これがそもそもあまり意味がない、もしくはよろしくないということがわかってきました。最新の学習理論的に言えば、そもそも人の知識獲得というのがそういうプロセスで起きていないんです。一見関連が見えない様々な事象を見たり聞いたりして、自分の中でそれらを結びつけて考えたり、帰納的推論を行って一般化したりする。それこそが学習の本質であって、学習者の中で自発的にそれが起きなければあまり意味がない。綺麗に系統立てて教えてあげてもフーンってなもんで流れていってしまう。むしろ、時には情報同士で矛盾すら起きて、それを合理的に説明してみる、といった活動がなければ身にはついていかない。
恐らくそもそも自分の頭の中にある知識がそうして獲得してきたものなので、それをシリアライズして他人に伝達できる類のものじゃ無かったんです。σ(^^)は、インターフェイスの問題点を予測したり説明したりできる(まぁ、仕事して食べていけてる程度には)。それは誰かに「こうすればいいよ」と教わったものではなくて、好きで色々な道具に触れてきた中で得た膨大な商品知識、大学で得た認知科学に関する知識、仕事で得た経験などが複雑に組織化されて今の自分のスキルを構成しています。そしてそれを後進達にも継承していかなければならないワケですが、あまり上手くいっていません。それが何故なのか少しわかったような気がします。
σ(^^)はユーザビリティ屋なので、自分の話が聞き手(読み手)にとって、スンナリ理解しやすいように整理し、系統立てて説明することにこだわりを持っていました。なので、自分の中のノウハウをなんとかシリアライズすることに固執していたところがあります。「これを読めば一通りのことがわかるよ」的なものを目指していたワケです。ですが、元々シリアルにσ(^^)の脳に入力された情報ではなかったものを、シリアルに出力して他人に伝達できようはずがないのです。そして、仮にそれができたとしても、相手の側でもそれがあんまり理想的な入力形態ですらないワケです。
■系統立てて整理してあげるのはダメ?
もちろん、情報を系統立てて順序良く整理することの価値は依然として充分にあるでしょう。帰納的推論の過程が大事だといっても、すべての人が同じ事象を見聞きして、そこから同じ推論をして同じ一般解に辿り着く、なんてのは効率が悪すぎます。セミナーでそんなことしたら顰蹙の嵐でしょうね(笑)。ただよく言われるような「本当に大事なところは本人に考えさせる」みたいなスタンスは織り交ぜていかないと、σ(^^)達が受けてきた上意下達的教育から進歩していないことになります。セミナーではその辺のバランスを上手くとって、ジグソーと呼ばれる方式で、参加者自身で異なった資料を読んで理解してもらい、それをグループ内で説明しあって、それらの間で一般化できる知識を見いだしてもらう、ということをしてもらう予定です。これは最近の教育研究の中で注目されている授業形態です。そうすることでより深く理解をしてもらい、頭に染みこませてもらいつつ、人間の理解過程の本質についてその場でプチ体験してもらえたらなと思っています。決して講師がラクだからとかではありませんので、お間違えなきよう(笑)。>参加者の方
多分、受け手の情報解釈への態度やスキルにも絡んだ話だと思います。綺麗に系統立てて話されたことの中からでも自分なりの一般化をしていける人もいるでしょうし、フーンで終わってしまう人もいるでしょう。人の違いもあれば、その内容に興味があるかどうかにも寄ってくるでしょう。前者に属する人は、基本的にあまりオーガナイズされた情報でなくても良いことになります。逆に後者の人にはどうするのが良いでしょう?自分で情報をオーガナイズするスキルがなければ雑多な入力は意味をなさないし、過度に整理された情報を一方的にガーっと入力されても目を回すだけです。バランスの問題と、そもそもどう興味を持たせるか、みたいなことなんですかね。
少なくとも旧来の教育では与えられた情報をオーガナイズする術そのものについてはほとんど扱ってこなかったことは確かであり、そこは問題なんでしょう。そして、興味を持てずにドロップアウトしていく子供のために、やさしくやさしく情報をかみ砕いて整理したものを押しつける方向に流れていってしまいがちだったのが失敗だったのかも。
■正しい教育のあり方
ヴィゴツキーという人が提唱した“発達の最近接領域”(Zone of Proximal Development)という考え方があります。ある子供がある段差を「乗り越えられない状態」から、「自力でそれができるようになる状態」までの間に、大人が足場をかけてやるなどの手助けをしてやればできる状態」というのがある。大人(教育者)の役目はその“足場かけ”(Scaffolding)を適切なレベルで行うことであって、無理だからと段差から遠ざけたり、段差の上に持ち上げてやったりするんじゃダメだよね、という考え方です。情報を与える側が系統立ててやるばかりでもなく、未整理なまま与えて放置するでもなく、学習者の中で推論や矛盾や問題解決といった知的活動が常に適切なレベルで起きるような与え方を苦心して考えていかなきゃならないってことですね。
■単なる知識が“心の糧”となる興奮
さて、今日の結論は、読み手のわかりやすさはあんまり気にせずに、散文的に書き散らしていって、読み手が勝手に再構成するまかせりゃーいいんじゃん、ってことだろうか(笑)。まぁ、それは極論だとしても、σ(^^)の古巣のような認知教育系の研究では至極当たり前のこんなこと、トピックとしては在学中にも何度か耳にしていたはずですが、今それを人に教える立場になってみることで、ようやくそれらのエピソードが有機的に結びつき、自分にとって意味あるものに“化けた”気がします。これが本当に糧としての“知識獲得”なんだなと。“なゼミ”(三宅なほみゼミの通称)生としては遅すぎる気づきかも知れないですが、こういう体験は、次の知的興奮を求める何よりのエサなんですよねぇ。 少なくとも夜中にこんな長文を書いて人に知らしめたくはなってます。こういう連鎖が起きる(起こしたくなる)ことも大事ですよね。
ともあれ色々なところで少し気が楽になった気がします。
とりあえず目前のセミナーでは、
- 関連した情報の提示順にはあまりこだわらない
- でもそれらの関連について自身での内省を促してみる
- 連鎖的に人に話したくなるようなネタを用意する
といった辺りに留意してみようかと。
主張する元気
自分の会得したことが、独立に誰かの手でシリアライズされると、安心して、元気がでる。先を越された感もある。
研修を受けたり、文章を読んだときに、「あ、自分がもやっと感じていたことはこれだったんだ。」とか、ちょっと見には違うジャンルの話でも、通じるものを見つけたときに、すっきりした感じがすることがあります。
自分が聞いて、頭の中が整理されたと感じた話を他の人伝えても、「ふ~ん。なるほど。言ってることはわかるけど、だからどう使えばいいの?」みたいな反応をされて、「がくっ。」とくることもあります。
自分の頭の中を人に伝えるのって、難しいですね。